兵どもの戦場巡り


10月初め、裏磐梯にある史跡のいくつかを訪ねた。

雄大な自然が注目されるこのエリアだが、古来より会津と出羽国へ通じる要衝の地だった。




今回は、「桧原峠」を一緒に歩いたご近所のTさんの紹介で、北塩原村郷土史研究会会長の渡部新一氏を講師としたエコツーリズムカレッジ「米沢街道シリーズ」に参加した。

 


桧原湖北端エリアには、戦国時代に3つの山城があった。

・伊達氏の進攻を阻止するために穴沢氏が建てた「戸山城」
・穴沢一族が最期を遂げた「岩山城」
・その後伊達政宗が建てた「小谷山城(桧原城)」
 
それらの城があった場所を眺められる「檜原歴史館」の前で説明を聞く。




一般的に考えると有名な武将・伊達政宗は「正義」で、その会津進攻を邪魔した穴沢一族は「悪者」になるのかも?
しかし、ここは穴沢氏の地元である。当然「悪者=伊達」となる。

檜原で「金」がとれることもあって、伊達氏は檜原へ進攻するが、強固な穴沢氏の守りが崩せない。

そこで穴沢一族が風呂屋で楽しんでいるところを政宗が奇襲し、穴沢一族はそこで最期を遂げたわけだ。

裸同然の無防備な状態の穴沢氏を襲うなんて、伊達はやっぱり悪者だ・・・。

説明を受けている私達までも 「伊達政宗=悪い奴」 という気持ちになるから、おもしろい。

各々の山城跡へは歩いて行くことができるようなので、後日それらを訪れてみたい。

今回は各史跡間をマイクロバスで移動。
私達を含め、参加者の多くがもっと歩きたかったようだが、80歳を過ぎた講師のことを考えれば、バス移動は当然だったのかもしれない。

次は村の温泉施設「湖望」のそばにある「五輪塔」
穴沢氏族の墓標だ。


 

桧原湖に沈んだ墓地から、大正15年にここに移したらしい。

(桧原湖は1880年の磐梯山噴火によってできた堰止湖。戦国時代は湖ではなかった。)


「 山賊の物見の岩 」


 

時代をさかのぼり(檜原軍物語より前のこと)、この地に山賊が住みついていた。
そして対岸にある大きな物見岩から旅人を偵察していた。

会津の葦名氏の命で、その山賊を退治して手柄をたてたのが穴沢氏。




 

穴沢一族を滅ぼした伊達軍の進攻に備え、葦名氏と岩山城の難を逃れた穴沢氏の生き残りがここに「鹿垣(ししがき) 」と呼ばれる砦を造った。


 

ここは旧米沢街道の一部である。

今年「天地人ウォーク」というイベントがあったので、道は整備されていて歩きやすい。


 

講師の渡部氏はここより少し下にある大塩の生まれ育ちで、子供の頃、学校が終わるとこの道を檜原まで物資を運ぶ、今で言うアルバイトをしていた話もされていた。


 

つい最近まで実際に使われていた道であり、実際に行き来していた「生き証人」が目の前にいることで、急にこの道が身近な存在になった。


「萱峠」には江戸時代から昭和十年頃まで、一軒の茶屋が営まれていた。
ここはその跡地である。


 

米沢街道を行き来する旅人にとっては、峠を歩く際に一息できる大切な茶屋だったに違いない。


 

この茶屋跡周辺には栗がたくさん落ちていた。
かつての住人が、栗の木を植えていたのだろうか・・・。


伊達政宗軍の先陣が悪天候により退陣した「退頭古戦場」や街道目印に植えられた「松の古木」を見ながら大塩までバスで下り、大塩の地頭中島氏の「中島舘跡 」を遠望し、最後は会津の葦名氏の山城「柏木城」が見える丘にやって来た。


 

伊達軍の会津進攻に備え、正面に見える小高いに丘の上に柏木城が建てられていた。

伊達政宗が檜原城を会津侵攻の前線基地としたため、柏木城は重要性な山城だったようだ。

いつも通っている道中に、こんな山城があったとは全く知らなかった。

歴史を知ることは、その地域が身近なものとなり、とても大切なことだと今回の史跡巡りで感じた。

今回講師だった渡部氏は実際に山城跡を調査された方なので、その時のようすや戸山城跡の候補地には二説あって各々についての裏付説明など、そして子供の頃のお話もされたので、より興味が沸いたのかもしれない。

次は 自分達の足で、実際に歩いてみたい・・・。

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