兵どもの戦場巡り |
10月初め、裏磐梯にある史跡のいくつかを訪ねた。 今回は、「桧原峠」を一緒に歩いたご近所のTさんの紹介で、北塩原村郷土史研究会会長の渡部新一氏を講師としたエコツーリズムカレッジ「米沢街道シリーズ」に参加した。 |
桧原湖北端エリアには、戦国時代に3つの山城があった。 一般的に考えると有名な武将・伊達政宗は「正義」で、その会津進攻を邪魔した穴沢一族は「悪者」になるのかも? 桧原湖に沈んだ墓地から、大正15年にここに移したらしい。 |
「 山賊の物見の岩 」 時代をさかのぼり(檜原軍物語より前のこと)、この地に山賊が住みついていた。 |
穴沢一族を滅ぼした伊達軍の進攻に備え、葦名氏と岩山城の難を逃れた穴沢氏の生き残りがここに「鹿垣(ししがき) 」と呼ばれる砦を造った。 ここは旧米沢街道の一部である。 講師の渡部氏はここより少し下にある大塩の生まれ育ちで、子供の頃、学校が終わるとこの道を檜原まで物資を運ぶ、今で言うアルバイトをしていた話もされていた。 つい最近まで実際に使われていた道であり、実際に行き来していた「生き証人」が目の前にいることで、急にこの道が身近な存在になった。 |
「萱峠」には江戸時代から昭和十年頃まで、一軒の茶屋が営まれていた。 米沢街道を行き来する旅人にとっては、峠を歩く際に一息できる大切な茶屋だったに違いない。 この茶屋跡周辺には栗がたくさん落ちていた。 |
伊達政宗軍の先陣が悪天候により退陣した「退頭古戦場」や街道目印に植えられた「松の古木」を見ながら大塩までバスで下り、大塩の地頭中島氏の「中島舘跡 」を遠望し、最後は会津の葦名氏の山城「柏木城」が見える丘にやって来た。 伊達軍の会津進攻に備え、正面に見える小高いに丘の上に柏木城が建てられていた。 |
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